9/27(8日目)①

本日もネットカフェからおはようでございます。
早いところ風邪が治ってくれないかとやきもきしているところですが、焦っても始まりません。
しかし今回利用した自遊時間さんはとても居心地がよかったですね(前に利用したことのある自遊空間さんとはまったくの別会社です)。
そのうち利用した各ネットカフェのレビューでも書こうかと思います。

さて今日目指しますは、福島・宮城の県境に程なく近い白石市です、
現地にはお城もあるというので行ってみたいと思います。

まずは適当に市内散策。
延命寺
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白石駅
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うーめん製麺各所
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まだ朝早くどこも開いてませんでしたが。

そして白石城入り口でございます。
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最初こそ坂道がありましたが、岩出山とか青葉山とかよりぜんぜん短く緩やかでした。
そして天守がこちら。
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久々登場さとぽん(天野)

ここらでうろうろしていると、ガイドのおかあさんがいそいそとやってくる。
案内してくれるというのでついていってみることに。
まず天守と土塀の石垣について説明を受けました。
見ると上と下とで色や苔の生え方が違いますが、もともとの石垣が残っていたところと、20年前に天守が再建されたときに改めて積まれた層とがあるからだそうです。
そのうち上の新しいところにも傷や苔が生え一緒くたになるので、このグラデーションが見られるのはあと数年だろうとのことでした。
あと天守と土塀の石垣にも違いがあり、天守側は石を加工せずそのまま積み上げる、いわば戦国型の野面積みという積み方。
一方土塀の上のほうは、江戸時代近くに建てられた新しい部分なので、切石・隙間石を用いた・・・なんとか積みというつみ方だとか。すみません、思い出したら書き直します。
左右見比べると、天守の石垣は総じてまん丸のままの石ですが、土塀のほうは上の石が切られて加工されているのが分かるのと思います。
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それから一の門、そして大手門をくぐるわけですが、大手門と一の門の間がちょうど中庭というか、谷底というかひとつの空間になっています。
これは敵が攻めあがってきたとき、この場所で食い止めつつ三方から集中砲火を浴びせられるよう設計したからだといいます。
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大手門をくぐると開けた広場が現れますが、ここに昔は御殿が建っており、政務を行う場所、謁見の場、大名家臣の日常生活のスペースなどになっていました。
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最後の石碑は初代・小十郎公の記念碑です。
巨大な一枚岩を切り、石巻方面から塩釜まで船で運び、そこから陸路でここまで運んできた代物だといいます。
当時は刀剣の形をしていたらしいのですが、長年の風雨と、太平洋戦争後は米軍の拳銃の的にされたりなどしたため、だいぶ削れてしまったみたいです。
しかし鞘に当たる部分もさらに土台に埋まっているので、10m以上といわれるの石碑の巨大さが分かると思います。

さてお気づきの方もおられるかと思いますが、天守閣の位置が本丸の中心ではなく、曲輪の各隅に配置される櫓と同じように、北の一角にドドンと構えられているのが分かります。
これこそ白石の天守が「物見天守」といわれる由縁で、北に睨みを利かせた造りとなっています。
しかしこれより北は、後に伊達家本土となる仙台青葉。
ここは伊達家重臣・片倉家の居城。
なぜ北を見張らなければいけなかったのでしょうか?

正解は、そもそも白石城は伊達の城ではなかった、のでした。
築城の大主は、会津若松の鶴ヶ城を建てたことで有名な蒲生氏郷(がもう うじさと)。
豊臣秀吉の家臣で、伊達への監視・牽制役として会津福島の方に派遣されてきた方です。

鶴ヶ城を建設後さらに白石にも城を築き、伊達家と渡り合おうとしたのです。
その結果、子の様な縄張りになったのでした。
見る人は、白石と会津若松の城はやはり作りが似ているそうです。

蒲生氏郷はその後40歳で早くに亡くなってしまい、後に会津若松に入城するのが、あの上杉家でした。
そして引き続き白石にも上杉家臣が入り、江戸時代になるまでは岩出山の伊達・会津の蒲生もしくは上杉の構図が続くのでした。

その後の関ヶ原にて、上杉は米沢へ押し込められ、伊達は仙台へ。そして白石は片倉家のものと落ち着きます。
江戸幕府開府後は、一国一城令のもと各藩にお城はひとつしか認められませんでしたが、この白石と熊本の八代のみ、特例として二つ目のお城として残されることを認められた珍しいお城なのでした。

ここまでほぼおかあさんガイドの受け売りなのですが、これにも増して出てくる出てくる白石のお話。
書ききれないので、いくつか箇条書きにして残します。

白石秘話
・江戸末期の文政期に火事に遭い、再建する際には図面を幕府に提出する必要があった。それが奇跡的に現代に残っており、20年前にほぼ当時のまま再建された。
・なので鉄筋なしの全木造建築である。

・入り口に来客用ひさし階段がある(伊達の殿様が濡れないよう気を利かせた造り)。
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・片倉の家紋は、名声が全国に響くようにと釣鐘紋である(先に貼った駅前の写真に鐘があるのはその為)
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・片倉家と来客用で入り口が違う。
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・大坂夏の陣にて、片倉二代目の重長は、真田幸村から娘・阿梅(おうめ)を託される。
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・重長の奥方は、大層阿梅を可愛がり、病で亡くなる間際、阿梅を後添えにと言い残したそうな。
・重長はそれに従い、以後50年、仲睦まじく暮らしたという。
・二人に子供は出来なかったが、先の奥方が残した娘の息子(重長の孫)が片倉家三代目として家督を継いだ。
・明治維新以降、改易された白石藩の家臣団は、一部北海道の幌別(登別)や札幌近辺に入植。白石区など面影を残す。

・お城なかの階段はそもそも梯子だったらしい。いまある階段もとても急勾配(油断すると脛をぶつける)
・けどガイドのおかあさん登るのが速い(地元のお茶会に来ていた奥方は皆、手すりに掴まり片足ずつソロリソロリと登ります。まぁ普通はそうなるよね。)

庇のある入り口の石階段なんかこれの二倍の速さでした(汗)

・資料館で上映される立体資料ムービーには、案内役に渡辺謙、初代小十郎に宍戸錠(わた入り!)の豪華俳優を起用。

とまぁ覚えているだけでこんな感じです。
濃密な時間を過ごしました。めちゃ面白かった。
この後は、ガイドのおかあさんから教わった市内名所を練り歩きます。

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